
アイヌ(北海道)レポート「コシャマイン慰霊祭」 森 健人
JR函館駅から車を走らせること2時間、上ノ国町に到着。東京の蒸し暑さはなく、心地の良い夜風と闇に響くヒキガエルの声が、初めての北海道を実感させてくれた。宿の裏手には町のシンボルでもある夷王山がそびえ、その麓にはかつてこの地に栄えた松前藩の勝山館跡地が残っている。当時の出土品も数多く発見され、周辺には北枕にして葬られた仏教徒の墓、そして東向きに葬られたアイヌの墓が、同敷地内に並んでいることを宿の女将が教えてくれた。諍いが発端となり、1457年に大規模なアイヌ民族と和人による最初の戦いがこの地で繰り広げられた。アイヌ民族が先住民族として認可され、アイヌと和人の関係史が見直される近年、北海道のアイヌ民族が中心となり平和と共存を祈る慰霊祭が夷王山山頂で始まった。
今回、上ノ国を訪れたのは、この慰霊祭で司祭を努める結城幸司さんの存在があったからだった。幸司さんは、アイヌの文化とその精神を現代に伝えるべく仲間とアイヌ・アート・プロジェクトを結成。伝統音楽にロックを融合させたバンド活動、木版画制作、国内外での講演会への参加など、その活動は多岐に及ぶ。幸司さんに初めてお会いしたのは、今年6月に名古屋で開かれたあるサミットの会場だった。「生物多様性と文化多様性」をテーマに、環境、民族問題について専門家の意見が5、6時間じっくりと交わされた後、幸司さんとバンドメンバーが紹介され、トンコリやムックリといったアイヌの伝統楽器を用いたライブ演奏が行われた。それまでシリアスな表情を浮かべていた来場者や関係者が体を揺らし始め、会場内に大きな踊りの輪ができた。ライブ終了後に汗だくになった幸司さんに「写真を撮らせて下さい!」と率直な気持ちをぶつけた。「写真はいいよね。北海道の夷王山というところで年に一度の慰霊祭があるから来るといい。気持ちの良いところだよ。」幸司さんのその言葉から今回の旅が実現した。
天候に恵まれた慰霊祭当日、ミネラルウォ−ター、虫除けスプレー、撮影機材などをトランクに詰め込み、会場となる夷王山山頂を目指した。曲がりくねった山道を抜けると、青々とした牧草地が目の前に飛び込んでくる。バックミラーには、松前藩始祖となる武田信広を奉った八幡社も見えた。山頂付近をしばらく探索した末、ようやく舗装された車道脇の丘下に会場を見つけることができた。既に自家用車や大型バスが乗り入れられ、子供からお年寄りまで幅広い世代の人々が集まっていた。野原の上にお弁当を広げ、木陰で慰霊祭の開始を待つ参加者の姿は、まるでお花見かピクニックでも楽しむようにほのぼのとしていた。そんな会場の様子を高台から見渡していた僕のもとへ、中学生ぐらいの女の子たちがやって来た。「こんにちは!」と一声、目の前に広がる日本海をバックに携帯電話のカメラにピースサインやポーズをつけて記念撮影を始めた。少し裏切られたような気持ちになりながらも、何だかほっとする光景だった。
お昼過ぎになって、参加者たちが夫々(それぞれ)の伝統衣装を身にまとい、丘を降りて来る。今年関東からの参加者も含め、総勢約40名。北海道の抜けるような青空の下、カムイノミ(神に祈ることを意味する)と呼ばれるアイヌの儀式が厳かな雰囲気のなか執り行われた。火を熾し、供物を焼くことで、自然神や先祖の霊を鎮める。司祭の幸司さんが代表してカムイと呼ばれる神に祈りの言葉をアイヌ語で捧げ、杯に注がれたお酒が参列者ひとりひとりにふるまわれた。その後、女性や若い世代を中心に伝統芸能や踊りが披露され、夕刻を迎える野原にはかけ声や手拍子が響いた。翌朝、片付けがあると言うので再び会場に足を運んだ。まだ静けさの残る山頂で最後の祈りが捧げられ、火が燃え尽きるのをゆっくりと待った。慰霊祭の幕が閉じ、参加者がバスや自家用車に乗り込んでいく。別れを惜しむように窓から手を降る子供たち。一行を乗せたバスが丘の向こうに消えていく。映画のエンディングロールを観るかのように連続してシャッターを切った。人気のなくなった野原でレンタカーのエンジンをかけると、妙にいとおしい気持ちになってしまった。
森 健人(もり けんと)
1979年東京生まれ。幼少期より80年代のアメリカンカル チャーに強い影響を受けて育つ。玉川大学文学部英米文学科を卒業後、サンフランシスコへ渡米。Academy of Art Universityにて写真を専攻。ローカルアーティスト達との交流、エキシビション等を経て帰国。現在は、東京を拠点に作品制 作、また雑誌やカタログを中心にフリーで活動中。
www.kentomori.com
明日は塩崎 亨さんによるレポートを掲載します。
展示の詳細はこちら。
2010-09-14 10:53:00
