
その土地を継ぐもの 菱田雄介
「こんにちはー」と言いながら、玄関をあける。声に応じて居間に入ると、ついさっきまで休んでいた座布団を敷き直して、僕にも座れとすすめてくれる。
「飯、食ったか?漬け物、美味いよ…」
新潟県十日町市の山間にある集落、池谷(いけたに)。
山の斜面を覆う棚田に、青々とした稲が揺れる。冬になると雪に埋まってしまうという集落は、短い夏をむかえていた。昭和30年代には、37軒あった家は、現在7軒。昔ながらの家は5軒になってしまった。平家の落人に起源を持つこの集落には名字が2つしかない。曽根さんの隣は曽根さんで、庭野さんの隣も庭野さん。400年の歴史の中で、人々は名字ではなく、屋号で「家」を築くようになった。隠居(いんきょ)、坂之上(さかね)、橋場(はしば)、津倉(つぐら)、新屋敷(あらやしき)…。昔、坂の上に家があったとか、橋のところに家があったとか、「屋号」は姓の原型のようにも思える。
早朝、橋場さんの軽トラに乗って、畑に連れて行ってもらった。現在、農業を続けている家は、4軒。出荷用ではなく、自分たちで食べるためのものだ。人生のほとんどを畑で過ごしてきた橋場さん。その朝、呆然と見つめる先には、イノシシに荒らされたサツマイモの畑と、カラスに食べ散らかされたスイカがあった。「明日収穫しようって時を待って、食べにくる。農業っちゅうのは、本当に自然との闘いなんだ」。73歳の橋場さんは言った。池谷に生まれ育った人々は今、70代を迎えている。かつては皆、都会にあこがれ、15歳になると、競うように出稼ぎに出た。「当時は大家族だったから、村を離れることができた」という。そして、池谷に帰って来た。彼らの息子、娘の世代もまた、この集落を離れて都会に仕事を求めた。違っていたのは、この集落に、誰も帰ってこなかったことだ。
「限界集落」という言葉がある。集落の半分以上の平均年齢が65歳を越え、共同体の機能が維持できなかった集落のことを指す。「限界」という言葉の使い方に批判はあるが、間違いなく今、日本各地で多くの“限界”集落が、消滅の時を待っている。400年にわたって維持、開発されてきた田畑も、わずか1年放置しただけで、荒れ地と化す。だから、70代といえども集落の人たちは、今も畑を休むわけにはいかない。
池谷の地に、新しい風が吹き込まれたきっかけは、2004年10月の中越大地震だった。棚田が崩れ、集落としての再起は不可能かと思われたときにやってきた、ボランティア。JEN(ジェン)は、一時的な支援ではなく、継続的な支援を行った(詳しくは、浅井広美氏の文章を参照のこと)。結果、毎週のように農業ボランティアが池谷を訪れるようになり、そのたびに集落の人々は、経験のない若者たちに、農業を教えるようになった。さらに今年、若い一家が池谷に移住。集落の維持にむけて、明るいニュースが続いた。「地震があと10年早くくればよかったのに」。池谷でよく聞かれる言葉だ。7月はワラビ餅、8月はスイカ。集落で穫れた甘味を頂きながら、僕は写真を撮った。400年という集落の歴史の大転換点の姿。もしかしたら消えてしまうかもしれない、それでも、消えないための努力を続ける人々の姿。
盆踊りを終えた翌日、坂之上さんが、蔵の中を見せてくれた。昔、大きな儀式のときに使ったという盃、皿、僧侶のための立派な座布団。そして、明治生まれの祖父が作ったという蓑が残されていた。「これ、着てみようか」普段、もの静かな坂之上さんが、そんなことを言うのは意外だったが、僕は喜んでそれをお願いした。本来なら雪の中、分厚い着物の上に着るための、蓑。ランニング姿で着る姿は、滑稽なものにも思われた。「傘をとってきてくれ」僕が慌てて持って来た傘をかぶった坂之上さんは、驚くほど、引き締まって見えた。明治時代から引き継がれた蓑からは、自然と闘い、それを制してきた一族の誇りがにじみ出ているようだった。普段は温和な坂之上さんの眼が、ギラリと見つめ返す。集落を消滅させるわけにはいかないと、坂之上さんの祖父が睨んでいるようにも見えた。現在、多くの集落が消滅の時を待っている。池谷の人々の挑戦は、全国に無数にある「限界」と呼ばれた集落の、希望となるはずだ。
菱田雄介(ひしだ ゆうすけ)
1972年東京生まれ。テレビディレクターとしての経験を踏まえ、「歴史とその周辺にある人々の営み」をテーマに撮影。NY、アフガン、イラクの日常を追った写真集「ある日、」(月曜社)出版。2004年に発生したロシア学校占拠事件の“その後”を追った「BESLAN」(新風舎)で2006年NIKON三木淳奨励賞。国後島の日常を描いた「КУНАШИР」で2008年写真新世紀佳作、北朝鮮と韓国を対比的に描いた作品で2010年写真新世紀佳作受賞。
明日は浅井広美さんによるレポートを掲載します。
展示の詳細はこちら。
2010-09-16 19:05:00
