
Out of sight, out of mind 伊藤郁
今回、ワークショップで若木さんからの提案で台湾、新潟、北海道で風景を中心に撮影をすることになった。正直、事前にあまり予備知識も無く決まったものなので、自分の気持ちがどこまでその場所、その景色に動かされるかの勝負になると思った。不安がないでは無かったけれども、実際行ってみれば、きっと撮りたいものが結構見つかるだろうと楽観的に考えていた。なんと言っても、若木さんが選んだ場所だ。きっと何かがあるに違いない。そう信じていたし、実際行ってみたらそうだった。この世の中には、多分、自分が思っている以上に、まだまだ撮っておくべきもの、撮っておかなければならないものが沢山ある。今回のワークショップを通じて本当にそう思った。
展示写真1「都蘭の海」
崖から見下ろす海の向こうに霞がかった朝日が昇っていた。ゴツゴツとした黒くて大きな岩。朱色に鈍く光る水面。辺りの景色がほの暗い闇の中からぼんやり姿を現した時、私は何だか時間という概念を越えた不思議な世界に包まれた気がした。目の前の海に向かって三脚を立て、4×5のフィールドカメラをセットし、フィルムを装填し、レリーズする。幾分せわしなく呼吸をするようにその行為を繰り返してるうちに、自分が何で縁もゆかりも無かった筈のこの場所に来たのか理解できたような気分になった。良くわからない事だけれども、写真をやっていると、それを撮るために自分はここにいるのだなぁと確信できる事が度々ある。ただの思い込みかも知れないけれども、それならそれでいい。
台湾の台東県にある海沿いの村、都蘭。台湾の先住民族、阿見族が古くから住むその都蘭の、幾分切り立った岸壁から海を見下ろせるこの場所は、阿見族にとって、自分達の先祖と交流する神聖な場所なのだという。その眼前に広がる景色は、原始的で、力強く、光の加減によっては非現実的なほど荘厳で、何か古代の宮殿や祭壇などの遺跡に通じる美しさがあった。
台湾に向かうちょうど2週間前、私の父親が他界した。葬儀や事務的な処理手続きや、自分の撮影の仕事に終われ、バタバタしながら父の死に対する気持ちの整理もつかないまま、気が付くと台湾行きの飛行機に乗っていた。機中で、父の事をぼんやりと考えた。息をひきとる寸前まで確かにこの世に存在していた彼は、呼吸を止めると同時にどこにもいなくなってしまった。人間は何処からきて、そして何処へ行ってしまうのか、またどこかで父と会える事があるのか。寝不足と疲労で朦朧とした頭で、そんな事を繰り返し考えていた。未明の都蘭の海を撮影したこの時も、まだそんな気分を引きずっていた。先祖と対話が出来ると先住民が信じた場所で撮影をしながら、元気な父ともう一度でいいから話がしたいと心から思った。
展示写真2「アイヌ・コシャマインが陥とせなかった山」
北海道上ノ国にある夷王山。その標高159mの山頂付近には武田信広を祀る夷王山神社がある。武田信広は、1457年「コシャマインの戦い」で勝利をおさめ、この夷王山山麓に勝山館という山城を築いたと言われている。今は大きな公園となっているその山麓の山頂付近の台地で今年も「コシャマイン慰霊祭」というアイヌのカムイノミ(カミに捧げる祈りの儀式)が行われた。私が行った時期は、もうすでに慰霊祭は終わっており、慰霊祭のモニュメントだけが残されていた。3本の木の棒を組んだモニュメントを眺めながら、こういうものをどこかで見たことがあるなと思った。台湾の都蘭で、スミン達のお祭りに、こういう棒を3本組んだものがあった。都蘭の海岸沿いに建てられた1本の太い丸太にもなんか似たところがある。でも、まあそんなものは本当にどこにでもあるか・・・そんな事を考えながら、前方に目を向けると、そこに小高い丘のような小さな山が見えた。よし、あの山を撮ろう。多分あれがアイヌの英雄コシャマインが最後まで陥とすことが出来ずに散った和人の城郭の名残りに違いない。実際は違っていた。コシャマインが攻めた道南12館最後の2つのうちのひとつ花沢館は上ノ国のもっと別の場所にあり、その後継の勝山館もその山では無かった。けれども、私はそんな事には気付かず、少しずつ場所を移動しながら何時間も撮影を続けた。本当はそれが城の跡なのか、それとも単なる小高い丘なのか、そんな事はそれほど重要では無かったのかも知れない。間違いなくこの場所はアイヌと和人との戦場であったと確信させる空気がそこにはあった。カメラと三脚を抱えながらその夷王山の山腹を登ってみると、急な勾配と重い荷物が当時の戦いの壮絶さを想像させ妄想が加速した。
日が落ち始め、あたりが暗くなりかけても、撮影を続けた。突然あたりの風が強くなり、三脚を抑えていないとカメラが倒れそうな状態になった。車の陰に三脚を立て、風が直接あたるのを防いだが、風はどんどん強くなっていき、そして冷たくなっていった。陽が完全に落ち、月が出始める頃には、あたりは寒すぎて外に立っていられないほど強烈な冷気を含んだ嵐のような状態になっていた。8月だというのに、この異常な感じはなんだ。カメラを持った和人に、ここはお前達の場所ではない、早く帰れと促しているのか。「コシャマインの戦い」は、本当はまだ終わっていないのかも知れない。そんな気がした。
(注)「コシャマインの戦い」
たった1本のマキリという小刀。その出来栄えや値段をめぐる鍛冶屋とアイヌの若者の小さな諍いが、コシャマインの戦いという後のアイヌと和人の関係を決定付ける歴史的な戦乱の発端となった。それまでのアイヌと和人の関係は、特に敵対関係にはなく、互いに北海道をめぐる交易の商売相手といった色合いが強かったようだ。当時、道南に渡った和人は、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。ある時、現在の函館市にあたる志濃里の和人鍛冶屋に、アイヌの若者が小刀(マキリ)を発注した。だが、出来上がったその小刀の品質と値段で、鍛冶屋と若者の間に諍いが生じ、怒った鍛冶屋がそのアイヌの若者を小刀で刺殺してしまった。その殺人事件の後、渡島半島東部の首領コシャマインを中心にアイヌ民族が団結し、1457年、アイヌ人の和人に対する初の大規模蜂起「コシャマインの戦い」が起こる。
北海道最古の記録である『新羅之記録』によると、1457年の「コシャマインの戦い」で道南12館と言われる和人側の城郭のうち10館が陥落し、茂別館と花沢館という残りの二つを落とせばコシャマイン側の勝利となる状況であったが、花沢館主蛎崎季繁や客将の武田信広がこの館を堅く守り、結果的にコシャマインの戦いに勝利したとされている(アイヌ側の伝承によれば、武田信広が和平交渉の席でコシャマイン親子をだまし討ちしたとなっている)。この功で蠣崎氏は松前大館、茂別館主と並んで蝦夷地の三代館主の一人に昇格し、花沢館はのちに勝山館に機能移管された。その後も、アイヌの大規模蜂起は歴史上度々起こり、のちの松前藩の蝦夷地統治へと繋がっていく。
展示写真3,4「池谷・入山」
池谷・入山は雨が多かった。山の天気は変わりやすいのは知っていたが、新潟県十日町市の山間にある池谷・入山での撮影は毎回1回は大雨に降られた。けれど、雨があがると、一瞬にしてあたりの空気が一変し、実にすがすがしい雰囲気になる。太陽が見え始め、あたりが明るくなると、木々の葉が本当にみずみずしく輝き始める。森が深くてこんなにも素敵な場所が、東京から車でほんの数時間のところにある。400年前から続くと言われる村は、高度経済成長によって過疎化が進み、2004年の中越大震災によって大いに傷つき、まだ復興の途中である。
1枚目の写真は急斜面に植林された樹木と、地震で崩れた地盤のなごり、土砂によって折れ曲がったカーブミラー、そんなものが渾然一体となっている場所を見つけ撮影した。最初、私は震災の傷跡のようなものばかりを探し撮影していた。何の手がかりも持たずに、池谷・入山に入ったので、その土地の中にある何かを、まだ本当には見つけられていなかった。注意深く探すと、震災の爪あとは、未だにそこかしこに残っていた。こんな平和で豊かな自然に囲まれた村が、数年前、地震の影響で、廃村寸前までいき、村を離れなくてはならない人達がいたという事実。その人達の事を思うと、胸が痛んだ。住み慣れた土地に対する愛着。その度合いは、都会に住む私達のそれとは恐らく比べものにならないに違いない。
今回、新潟、北海道、台湾と様々な場所に渡って撮影をしてきたが、どの土地でも考えさせられた事がある。それは、いったいこの土地は誰のものなのかという事だった。阿見族や、アイヌなどの先住民は、もともと暮らしていた土地を、後から来た漢民族や和人に奪われた歴史を持つ。ある時は戦いにより、またある時は知らぬ間に、その土地の所有権を失っていった。この池谷・入山に400年前、移り住んだ者たちも、そのようにして、住む場所を奪われた者たちだったのではないか。そんな気がした。そうでなければ、このような山の深い場所で集落を作り、ひっそりと生活をする必要はない。もっと平坦で耕しやすそうな場所が、麓の村には沢山あった。そんな昔の住人たちの事を考えながら、池谷・入山を歩いていると、この土地の、全てを覆い隠してしまうような深く重い「気」のようなものを感じることが出来た。よし、これできっと良い写真が撮れるぞ。そんな気分になった。
2枚目の写真。冬場の雪の重みで曲げられた木が、雪が無くなると真っ直ぐに伸びようと上を向く、その繰り返しで作られた木々の形や林の雰囲気が、なんだか池谷・入山という土地の風土そのままという気がした。続いていくためには、厳しい時も、穏やかな時も過ごしていかなければならない。途中で折れてしまえばそこで終わってしまう。現在まで連綿と続いてきているものの価値は、一度無くなってしまえば取り戻すことは容易ではない。不可能だとさえ言える。けれども、400年前から、いや多分、悠久の昔から人知れずひっそりと続いてきているこの土地の歴史の中では、これからもきっと全てが調和され、震災の傷跡さえも静かに包んでいってしまうのだろう。シャッターを切りながら、なんだかそんな事をとりとめもなく考えていた。
伊藤 郁(いとう かおる)
東京都出身 日本大学芸術学部写真学科卒。大学在学中、ファッションフォトグラファー故横須賀巧光氏に師事。卒業後、映像制作会社東北新社入社。同社退社後、再度写真家として活動を開始。現在、カルチャー誌、音楽誌、DVDパッケージ、商品カタログ、カレンダー、WEB広告等の仕事をしながら、東京のアンダーグラウンドで活躍するアーチスト達のポートレート、都市の自律性・連続性をテーマにした心象風景写真などを撮影中。
次回は若木信吾さんのレポートを掲載します。
展示の詳細はこちら。
2010-09-17 23:22:00




