SPBS 『TOKYO WONDER WALL』

プロローグ

2008.04.02 Update

  1. 【プロローグ】
  2. 【1】
  3. 【2】
  4. 【3】
  5. 【4】
  6. 【5】
  7. 【6】
  8. 【7】

『君』との会話はどれも感慨深いものだったけれど、僕にとっていちばん印象に残っているのはやはりこの質問をしたときのことだ。
「ひどく恥ずかしい質問があるんだ」
僕は、少ない頭でずいぶんと悩んでから、けっきょく、『君』に尋ねてみるしかなかった。
「ひどく恥ずかしいんだけど、聞いてみないわけにはいかなかった」
すると、『君』は存在しない口を開いた。
「僕はこれまでに203人の人間を見てきたけど」
『君』は多くの場合、そう前置きしてから、話を続けるのだ。
「恥ずかしいことなんて何もないよ。ちなみに君が僕に質問するのはちょうどこれが四十個目で、その中には君の性癖なんかの話題も含まれていたけど、まったく聞いていて恥ずかしいことなんて無かった」
感情のこもらない淡々とした口調が、僕にとっては優しくて、やすらぎだった。やすらぎを得た僕は、意を決して聞いてみる。
「人はなんのために生きているんだろう・・・」
言ってしまってから、中学生が自分の頭の中で考えるようなテーマだ、とやはり恥ずかしくなった。
「死ぬ理由がないからさ」
『君』ははっきりと断言した。
「リンゴは理由も無しに砕けたりしない。それと同じ理屈だよ」
「・・・・・・」
「人は、死ぬ理由が無ければ、生きるしかない。とても苦しい目にあえば、誰だって近くの人に『頼む。殺してくれ』って懇願することだろうさ」
「それじゃあ、僕は何の目標も持たずに生きていることを悩まなくてもいいのかな」
僕は泣きそうだった。
『君』は言った。
「それが自然だよ」
『君』が人だったら、そう言いながら微笑んでくれていたことだろう。
今度は、僕が僕の意見を言った。
「君は、人じゃなくて、ずっと動かずにこの場所にいて、203人を見てきたか
ら、それだけ客観的に考えることができるんだと思う」
「そうかもしれないね」
そう。
『君』は、只の壁の染みだ。
でも、『君』は、僕の唯一の友達だった。
少なくとも、僕は友達だと思っている。
『君』が僕のことをどう思っているのか、それは聞いていない。
答えを聞くのが怖いから。

君の存在を知ってからの7日ほどのあいだで、いろいろな話をしたね。
僕は大学生だ。アパートで一人暮らしをする、ごく平均的な大学二年生だった。
君との出会いは、僕が壁に話しかけたことから始まった。
うすい灰色の壁に、暗い色の染みがついていた。
サークルの飲み会を終えて疲れていた僕は、壁の染みに向けて話しかけた。
「やあ。・・・・・・壁と会話をするのは初めてだよ」
好きな映画の好きなセリフを、ちょっとだけアレンジした言葉だった。
エイドリアンもいないのにそんなことを言ったのは、ただ酔いが回っていたからだろう。
「僕も、話しかけられたのは初めてだよ」
君はそう答えた。
初めて話すそのひと言目から、君の話し方はお医者さんのように淡々とした口調だった。僕は驚いた。
「君、喋れるの?」
「どうかな」
どうかなって。
「言っておくけど、僕は只の壁の染みだよ。それ以上、僕は自分の存在に感心がない。科学的に立証できる、喋ることができるメカニズムがこの場所に存在するのかもしれないし、あり得ないオカルトかもしれない。もしくは、酔っぱらった君の見ている幻覚かもしれない。あとは・・・・・・一晩の夢だとかね」
「つまり」
僕は口を挟む。
「君は、自分でも自分の存在がわからないんだね」
「そう。ときどき君はそういう賢さに似た鋭さのようなものを見せるね。思ったより、酔ってもいないようだ」

僕は妙な気持ちになった。
「でも、自分のことはさておき、君のことはなんでも知ってるよ。少なくとも客観的なデータとしてなら。このアパートで生活するようになっておよそ四百日が経つ。そのあいだに君は85回、この家で料理をした。テスト勉強で12回徹夜した。経験した女の子は二人。回数は・・・・・・」
「待ってよ」
僕はなぜだか君を不気味に思わなかった。
それより、自分のセックスの話を人に聞かされる恥ずかしさで話を遮った。
「初対面の相手にそんな話をするもんじゃないよ」
自分で言った初対面という言葉になんとなく違和感を覚える。
「明日は一限から出なくちゃいけないから、今日はもう寝るよ。明日の夜、また話かけていいかな」
僕はそう言いながら、敷きっぱなしの布団に身体を入れる。
「ずいぶん冷静だね。壁の染みに話しかけられた驚きが少ないように思うけど」
「驚いたさ」
「君は、僕の正体を知ろうという気持ちはないの?」
君は寝ようとする僕に話しかける。
君が持った数少ない疑問のひとつだね。
「そんな気はないよ。おやすみ」
僕は布団のなかで寝やすい体勢に変える。
「でも普通、人は原理のわからないものを恐れるんじゃない?」
君はまだそんなことを言っている。僕は適当な調子で返した。
君はそれ以上問いつめることもなく、初日の会話を終えた。
僕は意外にも早く眠りにつくことができる。

ねえ。
君について知りすぎることが、君を失うことに直結しているとしたら、嫌だったんだ。
僕が君の正体を知りたくないと思ったのは、君と仲良くなれる気がしていたからだよ。

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  8. 【7】

次回【6】を公開します。お楽しみに。